釣りと魚のことわざ (太公望俚言集・二階堂清風 編著より)
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[ もう一匹は暇つぶし ] |
もう一匹釣ったら帰ろう、またもう一匹と、つい長尻になって乳離れが悪く、釣りの帰途はいつも慌しく、翌日に疲労を持ち越してしまう。釣りの切り上げ時=潮時の教え。 「碁打ちに時無し」、碁や将棋にもよくあること。 |
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[丁斑魚(メダカ)も魚(トト)のうち ] |
とるにたらないような小さなものでも、仲間には違いないことの例え。 丁斑魚は日本一小さい淡水魚。その地方名は、ざっと3〜4千にも及び、その数日本一。 佐渡地方では「おんごろべいも魚の人数」という。「おんごろべい」とはもちろんメダカのこと。また、その人。 |
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[ 丁斑魚(メダカ)は石菖鉢をめぐり、鯨は大海を泳ぐ ] |
小さいものは小さいなりに、大きいものは大きいなりに、大小・上下の分に応じてそれぞれ身の程に従った生き方、楽しみ方があるということの例え。 石菖=石菖蒲のことで、水辺に自生する多年草。 |
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[ 目高の学校 ] |
目高が整然と群れをなして泳ぐさまを、学校の児童に例えた言葉。因みに、魚の群泳を英語ではSchooling,「権瑞玉」は権瑞の幼魚が群れをつくり、玉を転がすように泳ぐことから、その群れを厳瑞玉とよぶ。 |
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[ 麦藁蛸に祭鱧 ] |
「夏蛸は嫁に食わすな」。初夏の蛸と夏祭りの時季の鱧料理、ということで、共に味が乗って旨い。鱧は関西を代表する魚で、京都・祇園祭にはなくてはならない魚。 鱧は梅雨の水を飲んで美味となり、大き過ぎず、卵を抱いた「つ」の字鱧が至上の味。 これを「一寸を二十四に包丁する」骨切りで、小骨が舌触りせず、包丁の刃が皮に達しないように料理するのが板前の腕。「大阪の祭りつぎつぎ鱧の味」。 一方、「尾花蛸」といって、薄の穂が出る九月頃の蛸はおいしくない、と通は言う。尾花とは薄の花穂。だが輸入・冷凍ばやりで、日本古来の季語が、次々と死んでゆく。 蛸は茨城地方のが旨い。北海道の真蛸というのは水蛸の雌だが、本州やアフリカの蛸と違って、軟らかく口触りがいい。おふくろの味であろうか。この二種類の蛸以外で旨いと感じた蛸はない。 |
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[ 麦の穂が出たら浅蜊は食うな ] |
浅蜊貝は六月〜九月が産卵期。特に毒性は認められていないが、かの浜名湖の中毒事件は有名。大漁に食べないほうがよい。一般に、夏は貝類を敬遠したほうが無難。 昭和五十六年七月二十九日の読売新聞によれば、福島県産の浅蜊貝を食べた十五人が、下痢性貝毒が原因とみられる食中毒にかかり、下痢・吐き気などの中毒症状を起こしたという。このため同県産の浅蜊は前面販売禁止になった。しかし、貝毒というだけで、それが何であるかは報じていない。 |
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[ 見捨てた場所に大魚が残る ] |
渓・清流釣に当てはまる言葉。誰が見ても良いポイントは誰もが攻める。魚は不在か、痛めつけられて針の怖さを知った魚しかいない。魚に面会しようと思ったら、迷人が竿を入れ難いポイント、見落とすような、一見つまらない小場所がいい。夏の渓流は、そういう穴場を拾い釣りする。こんな所で?大魚が躍る。水深が10センチあれば釣りになる。 |
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[ 水汚くして魚棲めず ] |
汚水の垂れ流し、下水道施設の不備、公害(実は人害=人災)、環境汚染で川も湖沼も海も、水は汚れ放題。「水清ければ魚棲まず」は死語か。 |
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[ 水清ければ大魚なし ] |
川では笹濁り(雨後茶褐色に増水した後に、次第に濁りが薄れて、平水に戻る直前の緑色がかった薄濁り水)、海もやや荒れて潮に濁りが入った時によく釣れる。(これは水色だけではなく、濁っている間、荒れている時は魚が餌を食べられず、空きっ腹を抱えているという理由にもよる)。一般的には、清過ぎる水には大魚はいないもの。 転じて、人は余りに清廉潔白であれば、優れた部下が集まらない。また、大きな仕事は出来ないことの例え。 「水の湍(タン)急なる処には魚なし」「水の清き者は常に魚なし」。 |
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[ 水濁れば即ち尾を掉う魚なし ] |
水が濁ると魚は苦しみ、元気に泳ぎ回ることができない。政治は穏やかでないと、民は生活を楽しむことができない。 |
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[ 翻車魚(マンボウ)の昼寝 ] |
翻車魚は、世界中の大海に漂い、主食は海月(クラゲ)。 大らかで天下泰平のさまに例えていう。翻車魚は河豚の仲間で、尾鰭がなく、体の後半分もない円盤型で達磨様。泳ぎは不得手。寿命は約20年、体長3メートル、体重4〜5トンにも達する。産卵数は2〜4億個といわれ、魚類中で最多産を誇るが、なぜか幼魚は余り採集されないという。市場に出ることはなく、漁師のみが知る翻車魚の味。肉は白身で淡白で美味という。 ニックネームは「悟り澄ました魚」。無抵抗で、生活振りは消極的。その往生際も見上げたもので、銛で突かれて船上に引き上げられても、暴れもせず、ゆっくり瞳を閉じて息が絶えるという。鯉以上に従容としている。 食うか食われるかの自然界にあって、こんな魚が生きていられるのは、その圧倒的な産卵数にある。 |
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[ 前の字のつく国の水母は食える ] |
豊前・筑前・肥前(福岡・大分・佐賀・長崎各県の旧国名)地方は、昔から水母の調理に明るい腕の立つ料理人が多かったので、このような言葉が生まれた。 |
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[ 盆に魚を食わぬと仏様に口を吸われる ] |
仏教ではくん酒も生臭も許されないが、両親のある者は、遠慮せずに盆に魚を食べるという、昔の習慣から出た言葉。今では、盆は精進が普通だが、昔は鮮魚の得られない地方などでは塩鯖を盆祭に用いる風習が広く行われた。 塩鯖=刺鯖のことで、背開きにして塩干しにした鯖。二枚重ねて一刺としたことから「鯖読み」の一語源ともなった。この刺鯖を「盆さかな」と言った。 |
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[ 盆過ぎて鯖商い ] |
昔、武士は塩鯖を盆の贈り物とし、また、両親の揃っている者は、「盆ざかな」と称して生臭を食べる習慣があった。それでお盆の前には魚価が上がり、盆が過ぎれば時期遅れで買い手がなく、値が下がった。「十日の菊」、「六日の菖蒲」で時期はずれの例えにいう。 盆を過ぎると「秋鯖」の候に入る。 「正月に餅搗かず、盆に鯖食わず」とくれば、倹約に非ず貧乏の例え。その頃庶民は鯖の代わりの素麺を用いた。この風習は現代にも生きている。鯖は「お中元」と名と形を替えて商魂に躍らされている。 |
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[ 鯔の一畑参り ] |
上り鯔は南を通り、下り鯔は決まって北を通るという。これを一畑寺のお参りにかけた言葉。 一畑参り=島根県・平田市の臨済宗一畑寺の本尊薬師如来に参詣すること。毎月八日が縁日で、九月が特に賑わう。 |
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[ 帆待ち ] |
主人に内緒で家族や使用人などが荒地を耕して新しく田畑を作ったり、お金を貯めたりすること。俗にいう「ヘソクリ」。 語源は、利口な魚屋に由来する。即ち、漁船が魚を積み沖から帆を掛けて寄港してくるのを、魚屋は浜で懐手をしながら待っていて、楽をして儲けることから出た言葉。一説に、「出帆を待つ間の船頭の稼ぎ」もある。出帆を待つ間ではロクに稼げないが、長距離運送のトラックの運転手が、帰りの空車を利用して荷物を運ぶのは、まさに帆待ちになる。 帆待ちは「外持(ほまち)」とも書く。「外待子(ほまちご)」は私生児のこと。他に外持商い・外持田・外持雨などの言葉がある。ヘソクリ金のことは「巾着銀(きんちゃくがね)」。 一茶の句に「外持田の水も落として夕木魚」がある。 |
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[ ほっちゃれ ] |
産卵後の鮭の事。 鮭は生まれ故郷の川に帰り、産卵の大役を終えると、精も根も尽き果てて、尾羽打ち枯らして三〜五年の短い生涯を閉じる。鼻は欠け、鱗は落ち、皮は破れ、尾はささらのよう。文字通り満身創痍である。これを「ほっちゃれ」または「ほっちゃり」といい、老魚と当てる。肉には脂肪のシの字もなく、白い塊。食べては大根以下の味のなり、俗に「川大根」という。水漬く屍となって流されるうち、烏や鳶、狐などの餌食になってしまう。 転じて、子育てが終わり、人の務めを終えた皺だらけの、痩せ衰えた人をいう。櫻鱒も同様の運命を辿るが、同じ学名の山魚女は一度の産卵で死ぬ事はなく、数年は生き延びて産卵する。 |
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[下手の長竿] |
「下手の長糸、上手の小糸」。 釣りに未熟の頃は、隣りの花が赤く見え、遠くや対岸を狙いたくなって長竿を使いたがるが、長竿は疲れやすく、合わせもままならない。「長鞭馬腹に及ばず」。 釣り竿は大は小を兼ねず、小で大を兼ねさせる(バカ=釣糸の余長=で加減する)。 「杓子は耳掻きとならず」・「搗臼で茶漬け」も絵にならない。 この言葉をそのまま用いたエッセー集に竹内始萬著「下手の長竿」(つり人社)がある。 文章では「下手の長文」という。直接の意味は異なるが「下手の道具調べ」というのもある。釣りでは入念に道具・仕掛けを調べるに超したことはない |
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[鰤みたいな鰯、鰯みたいな鰤] |
嫁の里から送られてくるものは、大きな鰤でも鰯のように小さくなり、自分の娘やその嫁ぎ先に送るものは大きい、というのが常であるということ。 出典は明らかでないが、鰤の贈答の風習からみて、多分北陸地方であろう。また、嫁を貰って初めての正月には、嫁の実家に鰤を贈ったという。「嫁御ブリがいい」の意味。 |
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[鮒侍] |
鯉を高位として大人物に例えた時、鮒を小人物と考えた事から鮒の呼び名。転じて、ドタバタ騒ぐヘッポコ侍のこと。四十七士の仇討ちの美談はともかく、その原因となった浅野内匠頭の殿中松の廊下の刃傷沙汰は、その典型であろう。髭のあるなしでこれだけの違いがあるのか。 |
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[河豚は食いたし命は惜しい] |
「蜜は甘いが蜂が刺す」。 利益も欲しいが、損失も恐ろしく、物事が両立しない事の例え。 |
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[河豚にも中れば鯛にも中る] |
どこで災いが起こり。何時そのとばっちりを受けるかわからない。魚で中毒するのは河豚だけではない。 |
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[河豚食う馬鹿に食わぬ馬鹿] |
「河豚食う無分別、食わぬ無分別」とも。 河豚には猛毒がある(一部を除いて)のに、これを平気で食べる。「男の子われ河豚にかけたる命かな」。旨いといってもたかの知れた魚の肉に命を賭けるのは馬鹿。さりとて、恐れて食べない者は、こんな旨いものがあるのを知らずに過ごすのだから矢張り馬鹿。人間はどちらかの馬鹿にならなければ世間を渡っていかれない。 よく考えてみると、河豚を食って死んだ人は数え切れないが、食わないで死んだ人は皆無。後者の馬鹿に属したほうが身のためだ。 「俳諧の ために河豚食ふ 男かな」 虚 子 |
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[河豚一尾に水一石] |
真河豚(虎河豚)一尾で、人間三十三名がコロリと逝く。 青酸カリ以上の河豚毒、テトロドトキシン (河豚には大きな四つの歯がある。四つ=テトロがテトロドロンと学名になり、毒のドキシンが結びついた。) は、煮ても焼いても消えず、物理的に洗い流す事が一番。 だが一石といえばドラム缶一本の分量。こんなに水を使ったら、味も素っ気もなくなると通は嘆く。「河豚一尾に水三斗」ともいう。三斗は約五十四リットル、これでも多い。 |
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[百忙中一竿を愉しむ] |
「浮世半日の閑」。釣りは忙しい合間を縫って出かけるところに、真の楽しみがある。隠居の暇つぶしで、今日も釣り、明日も釣りでは苦痛が先走る。費用も馬鹿にならない。日曜釣師が一番の幸せ。 |
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[一浦違えば七浦違う] |
不漁の時は、周りの漁村一帯も同じように不漁に見舞われるもの。 又、一人の失敗が、同業者全体に悪影響を及ぼす事にもいう。 釣りも同じ。釣れない時は、何処へ行っても、誰も釣れないもの。無理をすることはない。日並みを待つことが賢明。 |
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[引っ張り蛸] |
一つの物を四方八方から取ろうとして引っ張ること。また、多くの人々から所望されること。 一方。張り付けの刑にするさまが似ているので、引っ張り凧とも書いた。 |
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[びっくり合わせ] |
早合わせのこと。 釣りを習い覚えた頃は、合わせの間が分からず、思い切り竿を上げて竿を折ったり、釣糸を切ったり。一般には最初のアタリ(魚信)で、慌てて合わせると失敗しがち。転じて、慌てて事を仕損じた場合の冷やかし言葉。 |
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[左ひらめに右鰈] |
「左平目に右鰈(さびらめにうがれい)」。平目と鰈は、その姿・形・色彩が似ている。両者の区別を端的に表現した言葉。 平目も鰈も保護色になっている側を表面にして、腹部を下(手前側)に置いたとき、目(頭)が向かって左側にあれば平目、右側に来れば鰈。川鰈は例外で、目は左側となり平目と同じ。「左鰈」は富山地方で香住平目(かんぞう平目)の事。平目でないのに目が左にあることからの呼び名。これでは面倒なので口で見分けるのも一法。「鰈は大口、鰈は小口=俗に口細とも言う」。もうひとつ「安いのが鰈、高いのが平目」。 この右・左とは別に、魚にも人並みの右左がある。先の、平目を置いた形と同様に、頭を向かって左側、背中を上、腹を下(手前側)にした形の時、その表面が左側で魚の表、裏面が右側で裏となる。通常、尾頭付きの魚を膳に盛る時、食べる側から見て、この形に整える事を例とし、礼ともした。要するに、魚の左側=表を表面とし、かつ、腹部が手前、背が向こう(食べる人から見て)となる。同じ頭が左、尾が右であっても、背と腹の関係が逆になっていると「正常位」とはならず、礼に反する事になる。 そして、食べる場合は、表にだけ箸をつけ、ひっくり返して裏まで食べない事を礼とした。そのために、魚は表が大事とされ、以前は大型の刺し身魚など、表と裏の値段が違ったとさえいわれる。 また、これに倣って魚の写真・絵画・魚拓も、頭部を左に向けた表を見せるのが普通である。(但し、直接法で魚拓を取る魚は裏=右側を大事に取り扱う事。出来上がりは反対になるので)。 以上の論法から、平目は黒っぽい方、鰈は白っぽい方が表となり、共に黒っぽい方が肉が厚くて旨いので、「平目は表、鰈は裏が旨い事になる。関西では、平目と鰈を区別せず「かれ」というとか。「かれ」は「かれい」の方言ともいう。 |
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[備前水母(クラゲ)] |
傘の直径が50センチにもなる大型のクラゲ類。瀬戸内海・玄界灘などに産し食用。三杯酢や柴漬けに用いる。(前の字の付く国のクラゲは食えるとか・・越前クラゲは?) まさに海のパラシュート。 |
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[彼岸の中日に鯊を食べると中気にならぬ] |
秋の彼岸の頃に獲れる、ハゼの味を伝える俗説。その頃は、「鯊釣り日和」で、初冬の頃まで釣りと食味の旬になる。鯊は矢張り秋の魚。「彼岸の中日に釣った鯊を食うと中気せぬ」もあり、この方がましな俗説 |
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[はみ出す] |
はみ=魚の大集団(魚群・なぶら)のこと。はみの周囲から大型魚に襲われると、魚はその中央部へ逃げ惑い、密集した魚が水面上に盛り上がる。この現象が「はみだす」。 転じて、押されて外へ膨れ出ること。 大方の辞典では、「はみ」を「食み」とし、「食み出す」としている。食物のことを[日葡辞書]で「はみもの」とした名残であろうか。「食む」は口を動かして喰うことであるが、魚が水面に浮かび出て呼吸することも「食む」という。 一方、「出なくてもいいのに出る」ことを「でしゃばる」といい、「出尺張る」と当てる。これは、普通の天秤棒は六尺(約1.8メートル)なのに対し、鋳掛け屋のそれは七尺五寸あったことに由来し、「鋳掛け屋の天秤棒」といえば、「出過ぎる者」に例えられる。 釣り用語の天秤釣り・片天秤(片天)は天秤棒から発したものである。 |
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[場所を替えたがる人に大釣りなし] |
釣りは一に根。付言の要なし。 |
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[ばくち打ちと雑魚釣りは親の死目に逢えぬ] |
どちらも面白くて夢中になり、帰るのを忘れることをいう。「碁打ちに時なし」 |
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[鰾膠(にべ)もしゃしゃりもない] |
鰾膠(にべ)とはニベニカワのこと。 鰾はスズキ目ニベ科の魚で、同類に通称イシモチ(白グチ)がいる。その鰾(うきぶくろ)から膠(にかわ)を精製し食用・薬品用に使用される。粘着力が強いことから、転じて、他人に親密感を与えることだが、多くは否定的に用いられる。 「鰾膠(にべ)もしゃしゃりもない」は、粘り気も、シャリシャリしたところもない、の意から、味も素っ気もない、ひどく無愛想なことをいう。 一説には、しゃしゃりとは真言宗で砂舎利のこと。土砂のように何の味もないこと。しゃりしゃりではないともいう。 |
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[二八月は船頭のあぐみ時] |
二八月は荒れ右衛門ともいい、この両月は荒天が多く、海は時化て漁にならず、休漁する日が多い。プロを指していった言葉だが、海釣り愛好者にも適用されよう。 「兎が跳んでる海」、機嫌の悪い海に、危険と同居して釣ることはない。 三月は静かで「三月の海なら尼でも渡る」。 |
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[濁りに赤い餌、清水に白い餌] |
主として渓流釣りに当てはまる言葉。 赤い餌(ミミズ・イクラ・鮪の切り身・赤虫など)は、濁り水で魚がよくみえなくとも匂いで誘われる。白い餌(イタドリの虫・サシ・モロコシの虫・ブドウ虫など)は、魚の目に付きやすいから、水が澄んでいるときによく、釣り手の方からも見えて目印ともなり、誘い釣りに適している。 餌は複数を携行すると良い。ミミズは餌の王様、万能でもある。 |
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[逃げる餌は魚が追いかける] |
動物は一対一の場合、自分より大きいもの、強いものは襲わない。逃げる相手は自分より弱いと思って反射的に飛びつく。「瀬に付く魚に動く餌」。 魚の目は魚眼レンズだけに視点が定まらず、静止するものはよく見えない。そして、逃げる=動くものに興味と食欲を示す。匂いのない無機物のルアーに、渓魚等が飛びつくのはこの好例。海釣りでは餌を上下に動かし、渓流釣りでは上・下流、左右に餌を引いて魚を誘う。 釣りは魚の習性を知ることも大事。 |
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[逃げた鯰は大きく見える] |
「しめこの兎」(しめしめこの兎)も束の間。とり損なった魚が大きく見えるように、もう少しのところで失ったものは特別よく見えて、一段と惜しく思われる。 「逃げた鰻に小さいはない」ともいう。 |
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[苗代鯵に菜種河豚] |
鯵は味。一年中余り味の変化がみられない魚だが、八十八夜の田植えの始まる前後から、八月頃までが一番美味とされる。そして、大衆魚のチャンピオン。 「給料日前の魚」の渾名がある(昨今は値上がりで給料日にも買いにくくなった)。 一方の河豚は冬が旬で、「橙が色付く頃から菜種の花が咲くまで」が食べ頃。菜種の花が咲く時期になると産卵期に入り、毒性が一層強くなるので、食べないほうがよい。 「菜種河豚は食べるな」の教え。 同じ春、同じ海の魚でま、魚種によってそれぞれ旬が異なるもの。 |
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[慣れた釣り場にあぶれなし] |
通い慣れた、勝手を知り尽くした釣り場は、その時の具合でどうにでも対処できる。釣り情報に踊らされて、天手古ハシゴして歩いても釣れるものではない。自分の釣り場を持ち、そこを道場とすべし。腕を上げてから他流試合に臨むとよい。 |
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[鯰の子で口ばっかり] |
「鯰の子は鯰」で、生まれながらに口が大きい。口先だけで実行が伴わないことに例えていう。 |
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[浪花の鯔は伊勢の名吉] |
「物の名は所によりて変わる」。大阪で鯔と呼ぶものが、伊勢に行けば名吉となる。「品川の海苔は伊豆の磯餅」ともいう。鮎は日本ではアユだが中国ではナマズ。鮭は河豚のこと。混乱するばかり。こういう謎解きの辞典があれば便利だろう。浪花は浪速、難波とも書く。 |
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[夏山女魚一里一尾] |
盛夏ともなれば解禁から約半年、川はあれて魚影は薄く、水温も上がって釣り難い。型が見られれば僥倖。それを釣るのが上手・名人。 |
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[流れの石と化せ] |
フライフィッシングの原則。一度流れの中に確保した足場を動かさず、上体だけでキャストを反復する。動くと魚に警戒される。根が勝負。フライに限らず、釣りは一木一草一石と化す心がけが大切。 |
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[流れ川に大魚なし] |
「大魚は小水に棲むことなし」。 大人物が働くには、それ相当の舞台装置が必要だ、ということ。大きな魚は深淵にいて、ちょろちょろ流れの小川などには棲んでいない。 |
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[とどのつまり]
鯔は出世魚ともいわれ、成長に従って呼び名が変わる。
即ち、未通女(オボコ)−(スバシリ)−鯔(イナ)−鯔(ボラ)−大鯔−とど(止々)。
川にある時はオボコ、河口に出るときスバシリ、海に入ってイナ、成長してナヨシ、秋末にボラになり、
最後にとどと呼ばれることから、途中にいろいろな経過はあったが、最後は(に)・・・・の意で、
多くは不首尾や平凡な結果、もしくは否定的表現を伴う。
とどは止々のほか到々とも書かれ、つまりは詰まるで、そこから先がないこと。
詰まりだけでも、結局、要するに、の意になる。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の中には、「・・・二、三の問答があって、とど僕が・・・」と使われている。
鯔のほかに出世魚といわれるものを幾つか拾ってみると、
鰤=ワカシ−イナダ−ワラサ−ブリ。地方によっては、モジャコ−ハマチ(フクラギ)−コブリ−オオブリ。
鱸=セイゴ−フッコ−スズキ−オオタロ(大太郎)。
黒鯛=チンチン−チヌ−カイズ−クロダイ。
真鰯=シラス−小羽イワシ−中羽イワシ−大羽イワシ(マイワシ)。
泥鰌=ヤナギバ−オドリコ−ドジョウ。
鮗(このしろ)=シンコ−コハダ−(ツナシ)−コノシロ。
車海老=サイマキ(コマキ)−マキ−クルマエビ。
鯉=一生鯉で同じ名前だが、登龍門に因んで、「出世魚」と美称される。
出世とは無関係だが、成長過程・季節などにより名称の変わる魚もいる。
鮎=稚鮎−氷魚−上り鮎−若鮎−成鮎−錆鮎−落ち鮎−とまり鮎(古瀬・老生鮎=ヒネ)。
ほっけ=青ホッケ−ロウソクホッケ−春ホッケ−ホッケ−彼岸ホッケ−タラバホッケ(根ボッケ)。
(地方により多少のズレがある)。
さて、父(トト)はちちの幼児語だが、俗に大人(オトナ)=老人(男)をとど・おどともいう。
とどのつまりのとどと無関係ではなさそうだ。
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[時知らず]
鮭は「秋味」といわれるくらいに秋が旬。
その時を弁えずに回遊して来て、四〜六月、主として北海道の沿岸で漁れる鮭の異名。
また、時鮭・銀毛とも呼ばれる。
因みに、北洋産は白鮭(白毛)、または夏鮭で最も不味。
秋の産卵期に接岸してくるものは秋味で最も美味。
時知らずは大型で脂肪に富み、秋味に次いで美味だが、卵巣(筋子=鈴子・鮭子)は未熟。
鮭はいずれも塩を振って初めて旨くなるが、
時知らずは、特にブヨブヨして水分が多いので新巻(一塩鮭)がよい。
昔は荒巻とも書いたが、これは鮭に限らず魚を藁などで巻いたもの。
そのころの鮭は乱暴に扱われたので荒巻。今は新巻。
鰊が幻となってしまった今日、鮭をおいて北海道の味は語れない、
といわれるくらい北海道を代表する魚。経済的で捨てる部分がなく、全部食べられる。
皮が最も美味で、伊達公をして「鮭の皮がせめて一寸あったら・・・」と嘆かせたという。
一般に時知らずといえば、時期を弁えぬこと、又そのものを指し、
植物ではキンセンカ、時なし大根が挙げられる。
鶏卵や牛乳もその部類。ハウス栽培や養殖が進んで、やがてその範囲が広がるだろう。
一方、春告魚(鰊)は、三〜四月に漁れるものだが、六〜七月の季節外れに漁れるものもある。
全般に小型で黄色いダイヤ
(数の子。赤いダイヤは鮭の卵のイクラ=バラコ。小豆も一時赤いダイヤといわれた。)は入っていない。
これは時知らずといわずに、「馬鹿鰊」(油鰊=夏鰊)とランクを下げた表現。
「馬鹿鯊」といえば、餌さえ付けると人見知りしないで、誰にでも容易く釣れる鯊の俗称。
ダボハゼは、小型の鯊の総称だが、食用にならないところから、馬鹿鯊より劣る蔑称で、
貪欲の意も秘めている。
馬鹿貝は蛤のように、しっかり殻が合わず、足を舌のように出しているための由来。
馬珂貝とも書き風流な呼び名は青柳。
本題に戻って、銀毛・白毛・ブナ毛は、銀・白・ブナ色ということで、由来は狐の毛並み(色)である。
銀毛は鮭・鱒・山女魚・雨鱒(降海性を有する岩魚)に、この体色の変化が認められる。
銀毛という言葉が魚に用いられたのは、
昭和七年、大野磯吉氏が降海期を迎えた山女魚に「銀毛山女魚」と名付けたのが始まり。
銀毛山女魚は、銀白な鱗に被われ、特有の斑点(パールマーク=パーマーク)は殆ど見えず、
掌に握ると銀白な魚拓ができる。これはグアニンが沈着したもので、降海準備完了という姿。
北海道ではこの海に出て親鱒(桜鱒)になる宿命の銀毛山女魚を保護するため、
昭和四十年から四〜六月の三ヶ月間(地域により四〜五月、五〜六月。一部七月)、
山女魚は禁漁となった。
ブナ色になるのは産卵期を迎えた婚姻色で、
鮭・鱒のほか山女魚・鮎・ウグイ・ヤマベ(追河)・タナゴなどにも見られ、
赤腹はそのために魚名にまでなっている。鮭・鱒がブナがかかると、見てくれは悪く、
人は銀白にお化粧した北洋ものに食指を動かすが、味ではブナ毛が最高。
北洋産の白毛は青い林檎か蜜柑で旨いはずがない。
アイヌが、鮭をカムイチップ(神の魚)と崇めたのは、彼らの漁業技術から推してブナ毛であろう。
ブナ毛の度が超えると川大根(ホッチャレ)になる。
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[天地一竿]
抜けるような空、緑滴る大地。
大自然に溶け込み、一木一草一石と化し、一竿を振り、そして、一竿と化する。
これぞ渓流釣りの醍醐味。
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[手馴れた竿にしくじりなし]
車同様に、新品や借り物では癖が分からない。一日のうち、何本も竿を換えるのも感心しない。
川釣りや渓流の釣りでは、一竿で終始するのが得策。
ポイントの遠近は、竿でなくバカで調節する。
そして、バカを縦横にこなせるようになれば、釣り馬鹿も本物。
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[釣れる時は誰でも釣れる。釣れないところを釣るが名人]
付言を要しない。
管理虹鱒釣り場の放流直後と、残り鱒釣りを連想するとよい。確かに腕の差がある。
プロの世界では、「不漁の大漁は下手がする」。妬み根性であろう。
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[釣れますか?]
「釣れますか、などと文王そばに寄り」。
釣りをする傍らを通る人は、一様に足を止め、同じ言葉をかける。
釣り人同士が釣り場で出会うと、挨拶代わりに一言。Can you fish?.世界共通語という。
そして、返す言葉も同じ、「いやぁ、さっぱり」「ぜんぜん」。釣れていても嘘をつく。
敵に訊かれて真面に答える人は先ずいない。
根性が悪いのではない。自分の釣り場、故郷の川を大切にしようとする心の表われだろう。
釣りマスコミでは渓流釣りの情報収集が一番難しい。
釣り場が荒らされるから地元だけでひっそり楽しむ傾向が強い。
「何が釣れるうっ?」「ん、魚だっ」、御名答。
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[釣れない後は釣っても、釣った後は釣るな]
釣れないのは、腕・餌・日並みなどの条件などによるから、日が改まり餌を換えれば釣れる可能性がある。
釣ってしまった後では、それだけ魚が減り、釣り場が荒れているから、大きな期待は持てない。
特に渓流の釣りでは、一度釣ったら二、三日釣にならない、とか、先行者がいたら釣り場を更えよ、といわれる。
しかし、先行者の直後を釣って、先行者以上の釣果を得る者こそ、渓流釣の名人である。
また、どんな上手、名人が釣ったとて、全部の魚を釣り尽くせるものではない。
その後で手を替え、品を替えて釣る、こういうのが釣の醍醐味であろう。
釣りの解説書に拘っているうちは、まだ半人前以下。
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[釣れてよし、釣れなくてもまたよし]
漁師の釣るか釣らぬかは、直接米櫃に響くが、釣り人のは遊漁。
釣に行ったら、目的の魚がたくさん釣れてこそ面白いが、釣れなくても、自然との楽しい対話がある。
いちいち釣果に拘ることなく釣りはツリンピック精神。無心・無欲・無我、よろしく達観すべし。
とはいうものの、所詮は釣れなかったときの負け惜しみ、と陰の声。
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[釣れた噂を釣に行くな]
この釣れたは、釣った結果で、釣りから帰宅すると「釣れた?」と家族に訊かれるのと同じ。
前項の「釣れた」とは意義が違う。
よい釣り情報が入ると、つい行きたくなるのが人情だが、同じ条件・同じ釣りは二度とない。
さんざん釣られた後とあっては釣り場は荒れ、魚影も薄い。「柳の下の泥鰌」で噂は参考、来季用。
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[釣れた・釣った]
釣れた、は予想ましないとき、偶然に魚が餌を呑み込んだもの、駆け出し。
向こう合わせの根魚・深海魚釣りはこの部類。釣趣なし。
釣った、は釣る意欲、技術的なもので積極的に釣り上げたもの、ベテラン。
僅か一字違いでも、その意義は大きく異なるが、魚を数えるときは一緒。
英語で表現すると、いずれも I caught fish.外国人には日本語の微妙な感覚が分からない。
「渓流釣りに偶然はない」が、釣運という偶然=未知数があるから、又も明日も出かけられる。
結果が分かっていたら、宝くじを買う人はいないだろう。
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[釣り人の天狗話]
釣り人の釣りの話には尾鰭がついたり、鯖が読まれたり、「天狗の鼻の伸ばしっこ」。
釣られた魚は死ぬはずだが、釣り人にかかると、お富さんみたいに生き返る。
目方や長さに付録がつくのは大物釣り。魚拓を見てから納得すべし。
子供や孫まで産んで、話の度に数が増えるのは小物釣り。写真判定が必要。
しかし、罪のないジョークで、被害もない。
あちらでは Fish story・Fisher man story といい、万国共通らしい。
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[釣り人に悪人なし]
釣りは清新で高尚な趣味。釣り人は優雅で大らかな一見紳士風。
反面、惚れが強くてお目出度く、無責任な法螺吹き。几帳面で親切な面も・・・。
だが、これも二昔前まで?最近は釣道もマナーもなく、釣り場を荒らし放題。
農道に駐車し、田畑を踏み、時には泥棒紛い。
目下、信用回復が第一。
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[釣りは鮒に始まって鮒に終わる]
鮒釣りはポピュラーな釣り。小鮒なら誰にでも釣れる。
だが、一面渋味もあり、本気で研究(道楽)するとその奥は深く、
特に箆鮒(源五郎鮒・河内鮒)釣りは、人を魅了するという。
俗にいう「箆鮒人生」。釣り堀が繁盛する所以。
また、鮒に始まった釣りが、だんだんにその輪を広げ、
放浪の挙句、また鮒に戻る。
年齢・体力などにもよるが、箆鮒の薀蓄は尽きずという。
いずれにしても如上の訳をよく表現している。
鯊にも同義語がある。
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[釣りは道楽の行き止り]
魚釣り以上の道楽はない、ということだが、
ごく一部の金と暇のある御仁だけに適用される言葉だろう。
釣りは趣味の範囲内であって、道楽になったらおしまい。
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[釣りは師匠をとれ]
「三味と踊りは習いもするが、習わなくても女は泣ける・・・」。
「恋に師匠なし」ともいうが、釣りは芸事に同じ、釣道は芸道に通じる。
自己流では何年やっても上達しない。実戦に際し、
良き先輩の手ほどきを受けるのが最良。
一方、「釣に行ったら、その土地の人のいう事を聞け」ともいう。
この聞け、は尋ねる意味の訊けなのか、その通りに従うことの聞けなのか、
それともその二つの意を持つものなのか。
前者だとすれば「釣り道具屋の釣り知らず」もあり、
また、自分達の釣り場を保全しようと、必ずしも求めるものは得られない。
後者なら主として餌、毛鉤では色にあるが、餌釣りなら釣技でカバーできる。
どっちみち、聞いて損はないが、釣情報程度と思って気にすることはない。
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[釣りは魚が教える]
「習うより慣れろ」。人の話を聴き、書物を読むことも大事だが、釣りは実戦。
何度も釣り場へ足を運び、魚をたくさん釣ってこそ上手になり、コツも分かる。
自分の釣り場を持つことも大事。そのうえいい師匠がいたら鬼に金棒、めきめき上達する。
「猟は鳥が教える」。
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[釣りは頭の洗濯]
仕事が趣味と言う人も稀にはいるが、
人間、仕事以外に何か趣味を持っていないと、いつか頭がおかしくなると言う。
そして、趣味のない人は、創造性や進取の気象に欠けて巾が狭い。
趣味には釣りが一番、原始・自然に回帰し、ひとり無心の三昧境。
時には仕事も寝食も、女房や借金のあることも忘れて没頭する。
これ以上の洗濯はあるまい。自画自賛。
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[釣りの醍醐味]
醍醐味は、道楽と同様に仏典の用語からの言葉で、
「涅槃経」の中に、牛乳を精製する五つの過程が書かれていて、
「乳味ー酪味ー生酢味ー熟酢味ー醍醐味」。
つまり、最終過程が醍醐味であって、西条に美味を指す。
水では京都・伏見の泉水の味を最上として醍醐味と名付け、醍醐寺が建立されたが、
寺のほうは地名・醍醐天皇に縁がありそうだ。
転じて、一般的に最上のもの、深い味わい、の意に用いられる。
「久し振りに釣りの醍醐味を味わった・・・」など、軽々しく使われているが、
そう簡単に味わえるものではない。
物事の醍醐味が分かるには、長い時間と努力が要る。
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[釣り道楽]
道楽とは、ある道に溺れ楽しむこと。本業以外の道(趣味)に打ち込むこと。
語源は、仏典「阿育王経」の中の「今すでに道楽を得」にあり、
初めは、仏の道を悟った楽しみ、という高尚な言葉であった。
それが趣味の楽しみを指すようになり、
さらに落ちて酒色や博打遊びに耽けることを表わすようになった。
「道楽息子」といえば、その代表的表現。
釣りは趣味であって道楽にあらず(語源的に解釈して用いるのなら結構だが)、
有難くない言葉だが、文士・土師清二氏のように「釣道楽」の名の本を著した人もいる。
古くは明治三十五年、村井弦斎氏が同じく「釣道楽」上下二編を出し、
その長女が昭和五十二年に復刻版を出版した。まさに道楽であろう。
矢張り釣りは「楽しんで淫せず」くらいがちょうどいい。
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[釣り道具屋の釣り知らず、客の道具知らず]
釣りが亢じて釣具店を開く人が多い。
だが、商売ともなればなかなか好きな釣りに出られず、
情報は客から仕入れるので「三日前の古新聞」。
それを百も承知で、つい聞く事がある。
一方、釣り人が釣り道具を買うとき、知識不足のまま効能書きを信じて、
釣具店に任せることが多い。
どちらも「紺屋の白袴」。
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[釣り天狗に聞く耳なし、おっちょこちょいに見る目なし]
釣に限らず、世間にはよくこの蛍光がみられる。
聞く耳と、見る目を持ってこそ人と呼ばれる。
「話し上手より聞き上手」。見る目は、見物(学)と観察の違い。
「釣りは人なり」。
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[釣りする馬鹿に見る阿呆]
「踊る阿呆に見る阿呆」。
魚釣りは、当人も見物人も無駄な暇つぶしだ、ということ。
こちらは勝手に釣っているのに、その傍らを通る目明きは例外なく見物し、
例外なく「釣れますか」。
野次馬は「釣りの出歯亀」、釣り人の馬鹿を通り越えて阿呆となるらしい。
一方、「碁打ち鳥飼い馬鹿の中」「阿呆の鳥好き貧乏の木好き」ともいうから、
三千世界には馬鹿や阿呆が結構多いのだろう。
こうした人びとがいるから、利口が引き立つことにもなる。
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[釣り好きな百姓は子を飢えさす]
魚釣りは無駄な暇つぶしで、それだけ仕事がおろそかになる。
夕餉の肴の足しくらいにはなるだろうが、家計の足しにはならない。
百姓が釣に凝ったのでは、田畑に雑草が茂るのみ。
釣りは「日曜釣り人」的にやるのが健康に良く、罪にもならない。
釣三昧は結構すぎる御身分だが、釣りに行ったら、釣っている間は「釣三昧」。
この程度なら、魚も釣り人の勝手を理解して釣れてくれるだろう。
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[釣師の勝手魚知らず]
「烏何故啼くの・・・・烏の勝手でしょ」などと子供が歌う昨今、
魚が餌を食う、食わないも魚の勝手。
釣り人が釣りたいと希うのも勝手だが、「釣り人の心、魚知らず」。
潮時などの悪い日は、釣り人の期待空しく魚は口を使ってくれない。
ここで釣師について一言。
趣味で遊んでいる釣り人を何故、釣師というのだろう。
師とは、人を教え導く人であり、それを仕事としている人、の意である。
どう考えてみても、船宿のベテラン船頭や漁を職業とする者に漁師と師が与えられる程度で、
釣り人には相応しくないと思う。
一部の釣会では、釣果を競ってその成績に応じ横綱・大関などの号を掲げ、
また、試験の成績で段・級を与えるところもあるが、こうなると「釣士」がよいだろう。
釣はあくまでも趣味、釣り人で結構。愛釣家・愛魚家・遊漁者・釣り手・釣人・釣客でもいい。
残念ながら「広辞苑」には釣師はあっても釣り人はない。
井伏鱒二氏の本に「釣師・釣道」と「釣人」(いずれも新潮社刊)がある。
どういう訳で使い分けたのか、真意は不明。
小田淳氏の著書にも「釣師」があり、古くは、石井研堂氏の「釣師気質」がある。
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[綸(つり)して網せず]
綸は釣糸のこと。魚を取るのは釣に限り、釣り人は網を以って全部漁るようなことはしない。
生物を絶滅させるような殺生なことはしない。
孔子の態度は、このように仁心が溢れているということ。(論語)。
一般的には、「釣りすれども網せず」といわれる。
網とはハエナワ(一本の釣り糸に何本もの枝針をつけて、一定時間そのままにしておき、
一度にたくさんの魚を漁る道具。
置き針の規模の大きい仕掛け)のこと。
これが「釣りして網せず」。網と網。魯魚草章の誤り?。
なお、魯魚と同音の鱸魚は鱸の別名。
但し、「松江の鱸魚」の鱸魚は鰍の仲間、山の神のことともいう。
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[釣り三昧]
三昧は梵語のSammadhiの音訳(読)で、
普通、三摩堤・三摩地と当て定・正定・正受・寂静などと日本的に訳している。
言いかえると心を一つの事に集中して全く余念のないこと。一心不乱の意。
これから奥義を窮める意味ともなったが、
その上に、釣が付くと、他の事は顧みず、釣に夢中になること。
ちょっと聞こえはいいが、決して褒められた言葉ではない。
釣っている間は「釣三昧」。これならいい。
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[釣り五徳]
釣道の健・忍・寛・尚・楽の五徳目をいう。
最近は廃れて「楽」の追求のみ。嘆かわしい限りである。
人を育てるには軍備と同じく百年の計。向上を望むこと切。
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[釣書]
釣りの本に非ず、系図のこと。
転じて、経歴。旨い事を言ったり書いたり。結局、相手を釣ってしまう。
そして、釣った心算が、やがて釣られてかかあ天下。
これで世の中の釣り合いがとれている。
吊書とも書く。
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[釣り落とした魚は大きい]
「大魚を逸す」。
逃がした魚は大きく、いま一息、というところで失ったものは、過大評価したくなるもの。
惜しさ倍増。確かに、魚は大きくて重たいから釣り落としたり、釣糸を切られることが多い。
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[沈魚・落雁・閉月・羞花]
美しい女性を最大級に形容する言葉。
美人を見ると、魚は深淵に沈み隠れ、雁は見とれて列を乱して落ち、
月は雲間に入り、花は恥じらって萎んでしまう。
荘子曰く「毛ショウ・麗姫は人の美とする所なり。
魚は之を見て深く入り、鳥は之を見て高く飛ぶ。鹿は之を見て決く奔る」と。
毛ショウ・麗姫は共に中国古代の美人。
人は美しいと見るけれども、魚はこれを見ても美しいとは思わず、
却って恐れて水の中に深く入り、鳥も同様に高く飛び去り、鹿も驚いて急いで逃げ去る。
人と他のものでは、全然見方が違う。
同様に仁義や物の是非、利害なども、実は雑然と入り乱れたもので、
よくは見分けがつかないという意。
人間(特に男)が美人として目じりを下げて寄り付く人でも、
魚や鳥から見れば美醜に関係なく、同じ天敵。
その姿を見ると逃げてしまう。
日本では美人の表現に「立てば芍薬坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」という。
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[鱈 腹]
鱈(鱈には真鱈とスケトウ鱈の二種があるが、
ここでは真鱈)の胃袋は大きく、手当たり次第に何でも食べることから、
その食性に準えて、腹いっぱいに、の意。
「鱈腹食う」といえば、意地汚く貪欲に食べる事。当て字。
「たらふく孫左衛門」となれば、飽食すること。矢鱈・出鱈目も、
その辺の事情から当てられたものだろう。
ところで、鱈場蟹は、鱈の漁場で漁れる蟹として命名されたが、
実は蟹ではなく、ヤドカリの仲間。
蟹はハサミを入れて五対の足があるが、ヤドカリは四対。
鱈場蟹は四対しかなく蟹ではないのに、
誑されたものか、鯖読んだのか、蟹の扱いを受けている。
公正取引委員会や主婦連は、なぜか不当表示と騒がない。
真鱈の真は、スケトウと区別するための真(本当の意)であるが、
斑の体色が一役買ったともいわれる。
鱈・石鯛・海豚は「海の殺し屋」といわれている。
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[大漁の明日]
魚がたくさん獲れた翌日は、漁が少ないことを言う。
転じて、良い日の次の日は、また今日も、と期待するものだが、
「チャンスの後にピンチあり」。
そうそう良い日ばかりが続くとは限らない。
「漁に明日なし・浜に明日無し」。
・・・船の釣りで船頭から良く聞かされるセリフ「昨日の大漁」。
・・・昨日はよく食ったのに、今日はナンデダロウ!?
・・・(これもよく聞くなあ・・・・転載者の独り言です)
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[鯛も独りは旨からず]
どんなご馳走でも、独りでポツネンと食べたのでは旨くない。
料理は大勢で雰囲気で味わうもの。
また、「料理は器が食わせる」ともいう。
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[鯛の尾より鰯の頭]
「鶏口となるも牛後となるなかれ」。
大きな団体の一員で甘んじるより、小さな組織でもその長となるほうが良い。
栄養価を比較しても、鯛の尻尾より鰯の頭のほうが数段も上。
だが、世相を見ると「寄らば大樹の陰」。人は大企業へと靡いて行く。
また、名を捨てて実を取ることにも例えられる。
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[蕎麦の花が散ると秋鱚が食い始める]
「秋味」、「秋鯖」のように、味ではなく、春鱚・麦烏賊と同じく釣りを表現したもの。
鱚(キス)には青鱚と白鱚があり、昔は脚立の上から釣るといった風情溢れる光景だったが、
リールの普及発達で投げ釣りとなり、深場に落ちる秋には船釣りになってしまった。
鱚は白身の上品な味。川の鮎同様釣り人の魚。
旬も俳句でも夏の魚に扱われている。
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[蕎麦の花が咲けば鮎が下り始める]
鮎は清流の魚だが、河口で生まれて海で育ち、清流で成鮎となり、
産卵して短い一年の一生を終える年魚。
即ち、「秋生じ、冬育ち、春戻り、夏長じ、秋死す」。
秋、蕎麦の花が咲く頃、腹子を抱いた鮎が、結婚式場を求めて下流に向かう。
宮崎地方では「秋蕎麦の花盛りに蟹が下り始める」。
関東地方に「栗の実が笑みると川の魚が下る」というのもある。
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[俎上の魚]
「俎板の魚」。俎板(真魚板)の上に載せられた魚。
転じて、死ぬべき運命におかれた者。
「俎上の魚江海に移る」となれば、危険を免れて安全境に入ることの意。
マナイタのマナは真魚・真菜で最も良い食物の意で、かつ、マは美称的接頭語。
それらの魚や野菜を切る分厚い板が真魚板。
(本来は魚・野菜を区別し、魚用が真魚板、野菜用は菜板。
保健所の営業者への指導は、真魚板と菜板のほか、包丁も区別するようになっている)。
後に板と略称され、その前で魚菜を切る料理人を「板前」と呼ぶようになった。
[月の法善寺横町]では「・・・板場の修業・・・」。
料理屋で俎板を置く所・料理場を板場と称し、転じて、そこで働く者をいう。
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[船頭のそら急ぎ]
船頭は、船を出すと言って客を急がせるが、実際には、なかなか出帆しないことを言う。
往時の船は、釣り船ではなく客船であろうが、昨今の乗合釣り船に、似たような現象が見られる。
乗合船はバスと同じように、客の多寡に関係なく、定刻に出船するのが建前なのに、
釣り人が少ないと時刻が過ぎても、なんだかんだと言っては駅の方向に関心を寄せる。
時刻を守って、真面目に来た釣り人には、定刻通り出船する、といって乗船させておきながら・・・・。
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[船頭七分で釣り手は三分]
船釣りは船頭にオンブにダッコ。自由がなく自主性にも乏しい。
腕は二の次、三の次。海の魚は買うのが得。
漁師(船頭)もその方が儲かるはずだが・・・。
否、釣れても釣れなくても確実に懐に入る船賃の方に分があるか・・・。
「高い船借って安い小魚を釣る」。
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[晴釣雨読]
「晴耕雨読」を捩った言葉。
文士・土師清二氏が[晴釣雨稿]を著し、自らの邸を「晴釣雨稿亭」と称したのが始まり?。
晴天は釣り三昧、読書は三余。即ち、冬・夜・陰雨のとき。
そんな身分が待ち遠しい。
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[清水に魚棲まず]
「水至りて清ければ則ち魚なし」。
清く澄み過ぎた水には魚が棲まないように、人も生真面目で潔白過ぎると、
窮屈がられて友だちが寄りつかないもの。
「堅いばかりが武士じゃない」・「清濁併せ呑むべし」。棲は栖とも書く。
清濁の合流点に魚が集まる。
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[鱸(すずき)の鰓洗い]
鉤にかかった鱸は、その大きくて鋭い鰓蓋をふくらませて右往左往し、
ジャンプしながら、懸命に鉤を外そうとする。
まさに鱸の曲芸。
このとき、釣糸を緩めると鉤がはずれ、無理をすると針素を切られる。釣り人と鱸の掛け引き。
無事釣り上げた鱸は「洗い」で食べるのが最高の味。「洗い」に縁のある魚。
又、鱸の名は「すすきたるよう」、
つまり、すすぎ洗いをしたように身が白いことに由来したもの。
「土用の中の鱸は絵に描いて舐めても薬だ」とあるように、
土用から晩秋にかけての腹太鱸(抱卵もの)が美味。
釣堀や鱒釣り場の虹鱒のように、家畜化したものは別だが、
野性味を帯びた虹鱒の尺前後(30センチ級)のものも、
鉤がかり直後に水面上にジャンプするから、
素早く竿を寝かせて、弱るのを待つとよい。
竿を立てたまま頑張っていると釣糸を切られたり、鉤が外れることが多い。
竿を寝かせると、魚はジャンプできない。
「巨口細鱗」といえば、文字通り口が大きく鱗の小さい魚の意で、普通、鱸の異称。
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[水神ごめん蟹ごめん]
水遊びの嫌いな子はいない。夏の川は子供たちの唯一無二の遊び場。
つい夢中になってオシッコをする場所を探す余裕がない。川の中へすると、
川の神様のバチが当たる。
已むを得ず「水神ごめん蟹ごめん」と侘びながら・・・。
「川の水は三尺流れると水神様が清める」といわれていても良心が咎たもの。
この一語で救われる。
釣りにも、この気持ちを持ち続けたいものである。誠に微笑ましい諺。
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[スケトの嫁入り]
腹に子を宿して嫁に行くことをいう。
スケトが腹子をいっぱい宿して網にかかるからであろうか?。
昨今では時代の要請か、妊婦用のマタ二ティ・ウエディングドレスがあるという。
便利になった、恥ずかしがる事もなくなった。
スケトは魚編に底と書き、スケトウダラと読むのが正しい。
長すぎて語呂が悪いのでスケトと端折ったもの。
他に佐渡鱈・介党鱈・助宗鱈(略してスケソ)。
スケソウは、これを発見した漁師「助惣」に因むともいう。
スケトウダラの卵は紅葉子・たらこ(助宗子)で、親よりも子の方が市場性に富み、美味。
親は干物の棒鱈となって山村の肴や三平汁の材料とされるが、
その多くは洋上でフィッシュミールとなり、鰻を筆頭とする養殖魚の飼料となり、
形と味を変えて食べられている。
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[鮨は小鰭(こはだ)に止めを刺す]
鮨の中で小鰭のネタが一番飽きがこない。また、最後に食べると良い。
だが人は好き好き、一概には決め付けられまい。
小鰭はコノシロの幼魚の関東名。関西では鯏(つなせ)と呼ぶ。
コノシロは旨い魚だが、コノシロを食う、は「この城を食う」に通じるとして忌み嫌い、
ある殿様が「コハダ」と言わせたという。
一方、腹切り魚ともいわれて、武士の切腹の時に供えられたために嫌われ、
又、その焼く匂いは死臭を発するというので「オンボウヤキ」ともいい、
古来から賎品とされ、焼き魚としなかった。
「コノシロの昆布巻き」は見掛けだけはよくて味が劣るところから、
見掛けだけが良い事の例えに用いられる言葉。
鮨は鮓・寿司の字も当て江戸前料理の筆頭。
(鮨・蒲焼・天麩羅の順)で日本料理の代表でもある。
なお、「握り鮨」のことを「弥助」ともいう。
これは、平維盛(たいらのこれもり)が弥助と名を更えて、
釣瓶鮨弥左衛門(鮨屋)の家に下男として匿われているうち、その娘、お里に恋をされる。
それから鮨のことを「弥助」とも「お里」とも呼ぶようになった(義経千本桜)。
「釣瓶鮨」は、「吉野鮨」の一名で鮎を鮨に製したもの。
入れ物の形が釣瓶に似ることからの命名。
「鮨の辛味は山葵に限る」。粉・練りは邪道。
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[尋常の溝呑舟の魚なし]
小さな流れには、船を呑み込むような大魚は住んでいない。
大人物がその才能を発揮する舞台は、尋常の溝のような小さな場所ではない、という例え。
尋常=尋は八尺(約2.5メートル)、常はその2倍。転じて、僅かの長さ・広さの意。
尋常小学校は国民学校の前身で明治19年、寺子屋に代わって初めて設置された、
初等普通教育を施した義務教育の場で、諺の意味と異にし、普通・通常のこと。
百尋は河豚・鯨などの腸の俗称。
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[宍道湖七珍]
白魚・公魚(アマサギ)・鱸・鯉・蝦・蜆・鰻をいう。
日本海が逆流する中海と大橋川で結ばれる宍道湖(島根県)は、
海水が混じるため、豊かな水の幸を育てる。
出雲の人々は、これを七珍と呼んで自慢する。
アマサギは公魚(ワカサギ)の地方名で若鷺とも書く。
ワカは小さくて弱々しい、サギは白く清らかの意で、若鷺は当て字。
公魚は、
第十一代将軍・家斎公の時代から、
将軍家公儀御用の魚にとり立てられたことからの、これも当て字。
公魚は鮎同様年魚。
稀に二年と生き延びるものもあり、魚体は大型になるので、釣り人は「大公」と呼ぶ。
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[師走の貧乏烏賊]
陰暦十二月の烏賊は、小さくて味が落ちるので、このようにいう(和歌山地方の言葉)。
一般に烏賊のシーズンは秋(鯣烏賊・・スルメイカ)。
晩春〜初夏の「麦烏賊」は、食味より釣りの対象として喜ばれている。
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[白飯に小鯛]
土佐地方の言葉。
「米の飯に鯛の魚」・「白飯に鯉汁」・「新米にとろろ汁」どれもこれも旨いもの。
戦中・戦後の一時期は銀飯に塩だけでも旨かった。バターがあれば言うことなし。
世の中、平和で贅沢になってしまった。
往時より人口が増えたというのに米が余る御時世。
もはやご馳走ではなくなった。
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[上手は魚の口に掛け、下手は餌を呑み込ます]
「釣れた」と「釣った」の違い。
「釣った」場合も1・上顎、2・左右の頬、3・下顎の順が鉤掛かりの優劣になる。
釣りのコツ(上手・下手)は「合わせ」にある。
鉤外しを使うようでは下の下。
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[十月十日]
魚(古い呼び名でとと)に因んで「釣りの日」。
体育の日も関連して、
(財)全日本釣り団体協議会・(財)日本釣り振興会が昭和五十一年に制定したもの。
だが、渓流愛好家にとっては意義が薄い。
というのは、ごく一部の河川を除いて本州は九月中旬で禁漁期に入ってしまう。
折角の釣りの日であれば、健全に釣るか、せめて竿納めに一シーズンの総決算をしてみたい。
日本釣り振興会では、
五月五日のこどもの日を釣りの日と定めていたが、
日本釣り団体協議会の網打ちに遭って十月十日になったらしいが、
五月五日なら魚(ごっこ・・・魚の方言)で語呂もよく、また、片や子供の日であれば、
子供を中心に(出汁にして)鯉のぼりを見ながら一家で釣りが楽しめよう。
十月十日に拘泥することなく
全釣り人が参加できるような釣りの日(五月五日)を再考してみたらどうであろうか。
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[仕掛けをつくるのも釣りのうち]
世は分業、インスタント時代になって、なんでも既製品が売られている。
便利にはなったが、その反動で釣り糸も、針も結べない釣り人が増えてきた。
釣りは、釣る以前の道具を調べ、仕掛けを作りながら明日の釣りを連想する楽しさがある。
自分で整えたものは自信を持って使用できる。
そこには又工夫が生まれ、毛ばりなども一層進歩するだろう。
餌も自分で採取したものなら、惜しげもなく使える。
買ったものだと、金で釣っているようで、餌を付け替えるたびに気がめいってしまう。
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[塩辛を食おうとて水を飲む]
通常、塩辛といえば、烏賊の塩辛を指すことが多い。
鰹の塩辛は「酒盗」。その旨さに酒を盗んでも飲みたくなる。
このほか、「蟹雲丹」(蟹の卵の塩辛。雲丹は入ってないが、雲丹状を呈する)・
「うるか」(鮎の腸と卵の塩辛)・「キャビア」(鮫の卵の塩辛)・
「海鼠腸・・コノワタ」(海鼠の内臓の塩辛)・「雲丹」・「めふん」(鮭の腎臓の塩辛)・
「うろ漬け(鮑の腎臓の塩辛)など、どれも美味で酒の肴、熱い飯によく合う。
だが、塩辛は、その名の通り塩辛いから食べた後で咽喉が渇く。
だからといって、その前に水を飲むのは・・・・。
転じて、手回しのよいのも度が過ぎるとおかしい。目的と手段が前後していることの例え。
「明日の塩辛に今日から水を飲む」・「塩辛を食おうとて水の飲み置きする」とも言う。
ライスカレー、コーヒーには水がついてくる。
「やがて塩辛を舐めようとて今日から水は飲まれぬ」というのもある。
「塩辛声」といえば、しわがれ声のこと。潮で鍛えた漁師に多い。
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[秋刀魚は目黒に限る]
古典落語の「目黒の秋刀魚」のオチ。
江戸時代、3代将軍家光公がある年の秋、鷹狩りを催した。
その日は獲物が多く、気がついたら辺りに暮色が迫り、すっかり空腹。
そこで近くの「目黒の爺が茶屋」に立ち寄り、夕食を所望したが、
急なこととて上様の口に合うようなものは何もない。
やむなく自家用の秋刀魚を焼き、炊き立てのご飯に添えてご機嫌を伺った。
初めて秋刀魚を食べた家光公は、その旨かった味が忘れられず、
後日、お城で秋刀魚のアンコールをやったが、余り手を掛け過ぎてか、
目黒の味には遠く及ばなかった。
「何処の産ぞ」と問えば、家来答えて「房州の秋刀魚」と。
家光公、嘆息して曰く「秋刀魚は目黒に限る」。
この話は実際にあったことで、その子孫が現存している。
目黒とは現・東京都目黒区中目黒二丁目で、当時は目黒の里と呼ばれていた。
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[秋刀魚が出ると按摩が引っ込む]
「蜜柑が黄色くなると医者が青くなる」。
秋の魚、秋刀魚は栄養価が高く、食欲の秋にこれを食べると、体力モリモリ、
按摩にかかる必要はなくなってしまう。
「安くて長きは秋刀魚なり」。
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[桜鰆]
桜の花盛りの頃、鰆が大漁で味も良い。
春にちなんだ鰆だが、本当に食べて旨いのは冬。
(秋の魚は鰍・冬の魚は鮗)。桜鯛とて鯛も旬。
桜魚とくれば公魚の源氏名。公魚の釣期と旬は秋〜冬だが、
俳句の季題では春とされている。
他に、桜のつくものに桜ウグイ・桜蛸・桜マス・桜貝・桜鮠・桜干し・
桜煮・桜エビ・桜烏賊などがある。
なお、桜魚は小鮎を、桜鯛はスズキ科の海魚を指すこともある。
鰆は魚体の印象の狭腹が語源という。
単に桜といえば馬肉の異称。
「八重桜花(鼻)より先に葉(歯)は出でにけり」で、八重桜と馬のご面相を引っ掛けたもの。
(人に対して使われる事も)。
もう一つのサクラは、テキヤが仲間を客に仕立てて客寄せをする、その仲間の事。
語源は不明というが、パッと集まり、パッと散る、桜花に例えたものらしい。
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[雑魚寝]
雑魚とは、種々入り混じった利用価値のない小魚。
転じて、大物に対する小物の意にも(雑喉の音読で小物の意、ともいう)。
雑魚寝は、男女が入り混じって寝ること。
地方的風習から発したものだが、だんだんと形や内容を変えて、
男女の遊びに飽きた人たちのスリルを求める気持ちから、
色里では客と芸者などが入り混じって寝るようになった。
「雑魚寝するは芸子の習い」。
一方、東京の魚市場に対して、大阪では雑魚場といった。
魚市場は、東京に限らず全国各地にあるが、「魚河岸」は、
東京・日本橋の川岸に集まった、一群の魚問屋の集落のみに名付けられた固有名詞。
築地に移転しても変わらない。
そこには、腐りやすい(冷蔵・冷凍技術のない時代)鮮魚を扱うため、
早朝から働き、一種独特で機敏な判断と行動を要する商売人がおり、
江戸一流の、粋な気っ風・・鯔背が生まれた。
しかし、正確に言えば、現在は「東京都中央卸売市場・築地市場」で、
魚河岸は俗称。ここで働く人は東京都の職員。
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[魚屋のごみ箱]
改まっている、ということを、
粗(魚を下ろした時の余り部分・・頭・皮・骨・鰭など)が溜まっている、
ということを掛けた地口。
粗は捨てることはない。殆どが食べられるし、いいダシが出る。
また、身(肉)がないことから、外見ばっかりで中身がないことにも例えられる。
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[魚は殿様に焼かせよ、餅は乞食に焼かせよ]
魚と餅の上手な焼き方を表現した言葉。
転じて、仕事をさせる場合は、適任者を選べ、という教え。
魚を焼く時、何度も弄くると皮が剥げ、肉が崩れるから鷹揚な人が良い。
餅は絶えずひっくり返していると、焦げないでふっくらと焼きあがるから、
こせこせした人が良い。
「金持ちの子には魚を焼かせろ、貧乏人の子には餅を焼かせろ」・
「柿の皮は乞食にむかせ、瓜の皮は大名にむかせよ」・
「肴は上臈に焼かせよ、餅は下衆に焼かせよ」。
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[魚は釣っても釣られるな]
「酒は飲んでも飲まれるな」。
酒は嗜好品、釣りはあくまでも趣味。道楽になったらもう釣りではない。
だが、世の中は広く趣味がこうじて道楽紛いのキチに。
そしてプロ紛いともなって自分の船を持ったり、魚を卸したりして本業はそっちのけ。
釣りは熱病のよう。釣友の言葉が有効な予防注射になる。アル中と釣り中に気をつけよう。
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[竿の水見せ]
竿師が精魂を傾け、丹精こめて、本当に気に入った竿をつくった時は、
売りもせず自分でも使わず、一度だけ釣り場に持って行き、そっと竿に水を見せるだけ。
あとは後生大事に飾っておく、という。
俗な言葉で言えば「竿のアテウマ」。
だから、一番良い竿は竿師の持つ竿で、釣り人には渡らない。
一方、魚に振られてボーズ(坊主・・釣果ゼロ)で帰ったとき、
「今日は竿の水見せだった」と弁明に用いることもある。
ボーズをオデコ(釣れる気配がない・・毛がない)とも、形なしとも言う。
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[竿の片方の端に魚がいて、もう一方の端には馬鹿がいる]
フランスの釣りの定義とか。
片方の端に魚がついていれば良いほうで、ついていないことのほうが多い。
それでも竿を持っていればこそ、根を下ろして待つこともできるし、
カンカン照りの下、薮蚊に刺されながら川原を歩く事もできる。
そのいつ釣れるか分からない釣りを辛抱強く見物している辛抱強く見物している人もいる。
馬鹿の上前、この人種を何と呼ぶのであろうか。
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[竿すれ合うも他生の縁]
袖すり合うも・・・・を捩った句。
釣りは趣味、釣りに臨んでこのくらいの心を、相互に持ち合わせたいもの。
最近の釣りは、自分さえ釣れれば・・・・と、
「汚すまい明日もみんなが来る釣り場」(日本釣り振興会の標語)の心も忘れて、
殺伐となってしまった。
「一樹の陰一河の流れも他生の縁」。
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[竿下ろし]
その年の初釣りをいう。
また、新品の竿の初使用のこと。釣りの一年の打ち上げは「竿納め」。
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[ゴリ押し]
強引に自分の意見や考え方を押し通すことの俗語。
ゴリとは鮴でカジカ科の淡水魚。
オタマジャクシを大きくしたような形をしていて、川底の石から石へと泳いでは休むので鮴。
一名、石伏。
この魚の漁法は、二人一組になり、一人が厚板の真中に足がかりのある「板おしき」をつけ、
川底や石の間を押しこすって、無理矢理にゴリを追い上げる。
もう一人は、上流で大きな竹笊を構えて待ちうけ、逃げ込むゴリを掬い上げる。
ゴリ押しの語源。
また、ゴリの字は鮴のほか魚偏に臣と書く字が当てられる。
琵琶湖名産のヒガイは、明治天皇が大層好まれたので鰉の字を貰ったが、
同じ湖の住人(魚)ゴリは、ゴリ押しせずに遠慮したため、
つくりを臣下の臣を貰い、この字にしたと伝えられる。
ゴリはヨシノボリ(ハゼ科)の方言。主に佃煮で賞味される。
一方、ゴリ押しは、「五里の道のりくらい一気に押す」の意ともいわれるが、
この押す、という深い意味が不明である。
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[ゴマメでも尾頭付き]
「一輪咲いても花は花」。
なりは小さくとも、一人(魚)前に形態が整っている事の例え。
ゴマメは片口鰯の干したもので古女とも書く。水田の肥料にすれば豊作で五万米。
その縁起を担いで御節料理用に使われる。「お頭付き」は誤り。節は節句(供)の転。
ゴマメではこの他に[ゴマメも魚(トト)のうち]「もじゃこも魚並み」。
姿・形は小さくても、魚の仲間に変りはない。
[ゴマメの歯軋り]「蟷螂の斧」・「竜の髭を蟻が狙う」。力の弱い者が残念がり、悔しがること。
どう足掻いてもしようがない。政治の貧困を嘆く庶民は、この好例。蟷螂はカマキリのこと。
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[鯒は嫁に食わせよ]
鯒は骨ばかりで殆ど肉がない。
秋鯖・秋茄子を食わさず、その鯒を食べさせようとする意地悪婆さんの心意気。
山口地方の「かながしら嫁に食わせい」も同義語。金頭はホウボウ(竹麦魚)のこと。肉が少ない。
ホウボウも石首魚(イシモチ)同様に、鰾を使って鳴くほか、胸鰭で歩くことができる。
刺身・塩焼き・椀種で賞味される。
これとは反対に[鯒の頭には姑の知らぬ身がある]とも。
一見、骨ばかりの鯒にも肉はあり、特に頬の肉は少ないながらも旨いところ。
一般に魚の目玉・頬肉・顎の部分は美味。嫁に軍配。
転じて、意地悪されても、こちらにはまだ人の知らぬ旨い事がある、という例え。
これを知ってか知らずか「鯒の頭は嫁に食わせよ」もある。
「鯒」を「金頭」と置き換えて言うこともある。
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[心は錘に置け]
釣りは動的な禅。その心を教えるもの。
このくらいの心境にならなければ魚は釣れず、仮に釣れても心は餓鬼に等しい。
千五百万〜二千万人とも称する釣り人口のうち、何人がこの言葉を実行に移しているだろうか。
いや理解しているだろう。
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[五月の山女魚、鮎かなわん]
山吹の咲く頃、山女魚の錆が抜け体形は幅広型(幅広山女魚)となり、釣趣も食味も抜群。
川魚で日本一旨い(世界で二番目)とされる鮎よりも、この時期の山女魚は美味。
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[五月の腐れ鯛]
「麦藁鯛は馬も食わぬ」。
鯛の旬は冬。四〜六月は産卵期で、産卵後の鯛は不味(ほぼ魚類全般にいえる)。
産卵前は桜鯛(花見鯛・乗っ込み鯛)と称して賞味する。
伊佐木も、「麦藁伊佐木」と三文扱い。
大分地方では「麦はんさこ」(伊佐木のこと)と言って賞味。
麦藁はつ(鰤)は不味。
麦藁とは、麦の穂が出る時期(季)に由来。麦藁や麦穂では食べようがない。
反対の意味を持つものもあり、「麦藁蛸」は初夏に漁れる一番美味な蛸。
「麦藁賊」は麦の穂の出る頃に釣れる小型のスルメイカ・ヤリイカのこと。
麦穂帯は関節などに巻く包帯の巻き方。八字帯に似る。
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[鯉の滝登り]
「龍門の滝登り」。
黄河を遡った鯉は、龍門の滝まで来ると、あまりの急流に遡れなくなる。
もし、これを遡った鯉は龍になる・・・・の中国の伝説から、
人の立身出世に例える登龍門(立身出世の関門)の語源となっている。
五月の鯉のぼり、中国料理の龍門登鯉(紅焼鯉魚)は、これにあやかったもの。
作家の登竜門は直木賞と芥川賞。
だが、諺とは裏腹に、鯉は滝登りは疎か、急流にも住めない。
鮭・鱒なら少々の滝もジャンプして越え、鰻は垂直な壁でもよじ登る。
ついでに、鯉の鱗は三十六枚(実際は三十一〜三十八枚、平均三十六枚)あって、
別名を六六魚、三十六鱗。
関係のある龍は九十九鱗といって八十一枚あるという。
「六六変じて九九鱗となる」「六六魚変じて九鱗(龍)となる」。
一里(約4km)を三十六町としたのは、鯉の鱗から出たもの。
そのため、鯉という字は魚へんに里と書く。
字の通り、里の緩やかな流れが鯉に適した棲家である。
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[外 道]
仏教以外の、例えば中国の老荘や、印度のバラモン教などの教えをいい、
また仏教の中でも真理に背く邪説・異端、或いはそれを説く人をいう。
「外道畜生」。対する言葉は内道。
転じて、釣り用語として用いられる場合は、
目的のものと違った種類の魚が釣れたときの、その魚すべてを指す。
例えば、鰯を釣っていて鯛が釣れた場合も、鯛は鰯の外道になる。
しかし、誰がみても鯛は鰯よりも高級魚。
こういう場合は、外道とも内道とも言わず「祭りもの」と崇めるのが通例である。
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[渓流の佳人]
極東にのみ産する山女魚の異名。
因みに岩魚(嘉魚)は「水の妖精」・「山峡の騎士」、姫鱒は「湖の麗人」、鮎は「日本の魚」、
アメリカ大陸からの移住魚の虹鱒は「川の貴婦人」。
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[逆鱗に触れる]
この鱗は魚のものに非ず、
中国で、鱗虫の長として神霊視される巨大な想像上の動物、龍の鱗。
龍の顎の下の逆さ鱗(直径一尺・・30センチ)に触れると、怒ってその人を殺してしまう、
の故事から、龍を天子に例えて、天子の怒り。
また、目上の人の怒りにもいう。
魚類の鱗は、塵が積もって山となれば、グアニン(魚の塩分や浸透圧を調節する機能を持つもの)を抽出し、
造花の原料、ニカワ・塗料に使われ、ガラス玉に吹き付けると立派な真珠に化ける。
銀毛山女魚が、川を下って海に帰るとき、パールマーク(幼魚紋・・保護色)が消えて、
真っ白に近い銀色になるのは、鱗にグアニンが沈着するためである。
最も著名なのは太刀箔(太刀魚のグアニン)。
太刀魚は福島地方でサワベル(洋刀のサーベルの意)。形・色共にそっくり。
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[下戸の肴荒らし]
下戸は酒を飲まないので、手持ち無沙汰を箸に託し、よく肴を食い荒らし、
しかも、食べた跡が汚い。
また、上戸の皿までもつついてしまう。
宴会は上戸同士が並ぶべし。
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[夏至に鰻を食べるな]
「土用丑に鰻」の日本と裏腹なドイツの伝承。
普段、脂肪過剰の食物を摂り過ぎているためであろう。
食生活の違いがそれぞれ異なった諺を生む結果となった。
日本もそろそろドイツに倣ってもいい時期にきている。
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[げ そ]
下足の略。
鮨屋言葉で烏賊の足のことをいう。
もともと芝居小屋・寄席の下足(脱いだ履物)のことで、
履物を意味し、足の隠語に使われたものが、
どういうわけか、鮨屋に飛び火して隠語的な通言となってしまった。
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[黒鯛は血を荒らす]
黒鯛は歯が強く、小魚はもとより蝦・海栗・藤壺・蟹など何でも食べる悪食魚。
こういう雑食性の悪食な魚を食べると血が荒れるという。特に、妊婦には食べさせない。
いかもの食いを「黒鯛のような奴」と称する。
一方、「黒鯛は孕み女の血を荒らす」といい、子堕ろしに効く、とて逆療法もあるとか。
「チヌの腸は食うものではない」(岡山地方)。
チヌは黒鯛の幼魚、茅渟とも書くが、茅渟海(ちぬのうみ)・・・
和泉の国と淡路国との間の海、現在の大阪湾一帯に多いことからの由来。
茅渟鯛とも。
単に「黒鯛」と言えば、不身持ちの女性や娼婦に例える。
陸の雑食・悪食の雄は豚、
そして、動物中、雑食・悪食の最たるものは人間をおいて他にあるまい。
あれこれの詮索はともかく、雑食故に味はよく、磯釣りではスターの人気。
スターフィッシュといえば海星のこと。鱈・鮟鱇も上位にランクされる悪食魚。
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[ぐれはま]
蛤(はまぐり)を転倒した言葉。
蛤の殻は他の殻と合わず、逆さにするとますます食い違うことから、
「ぐりはま」と言い、物事が食い違う事の意。
話の分からぬ人にもいう。
「ぐれはま」は「ぐりはま」がぐれて転訛した表現。
「ぐれる」は戦後の一時期、今の暴走族のような若者を「愚連隊」といった。
堕落すること。
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[水母(くらげ)の骨]
「川の石、星となる」。あるはずが無い事や、非常に稀にしかみられない事に例えて言う。
また、確固たる信念・主義主張が無くて、
常に意見の動揺する人の例え(くらげの骨みたいな人・・と言う)。
水母は英語でゼリーフィッシュ。ゼリーに骨はない。
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[熊に山椒・鯉に胡椒]
食べ合わせを嫌うもの。
他に魚介類に関するものを列挙してみると、
「赤貝に土筆」・「鰻に梅干」・「鰻に梅」・「鰻に梅酢」・「蟹と柿」・「蟹と氷」・「蟹に蕗」・
「からすみに蒟蒻」・「ハタハタと南瓜」・「ハタハタと胡桃」・「鯉に猪」・「鯉に紫蘇」・
「鯉に雉」・「ゴマメに梅酢」・「鮭に海豚」・「鯖に南瓜」・「蛸に梅」・「田螺に蕎麦」・
「蛸に夕顔」・「鯰に牛」・「膾(なます)に冷や水」・「鮒に甘草」・「河豚に煤(すす)」・
「章魚(たこ)と柿」・「蛸に西瓜」・「泥鰌汁に金つば」・「心太(ところてん)に卵」。
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[腐っても鯛]
「千切れても錦」。
鯛は色・形・味の三拍子揃った、日本の魚類の王。
だから、少々腐っても鯛は鯛で、やはり価値はある。
転じて、本来優れた価値を持っている物は、例え悪条件や逆境に置かれても、
その本質は失わない、の意。
「熟(な)れても鯛」。
「腐っても鯛の骨」(長野地方)ともいうが、
実際には鮮度の落ちたタイより、新鮮ないわしのほうが美味。
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[魚目燕石](ぎょもくえんせき)
似ているが全然別なものをいう。
「魚目は魚の目、「燕石」は燕山から出る石で、どちらも玉ににているから。
似て非なるもの。にせもの。
「魚目珠に混ず」といえば「玉石混淆」のこと。
また、魚目は「魚の目に似て両目の白い馬・・名馬のことにもいう。
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[金魚にボウフラ]
好物を側に置いたのでは、気が許せないこと。
また、取り合わせの悪いことの例。
「猫に鰹節を預ける」の類。「猫に鰹節の番」・「猫に鰹節」とも。
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[休日明けに大漁なし]
さんざんに釣り荒らされた後は、魚はいても怯えて餌を摂らない。
物事には状況判断が大切。
しかし、渓流魚は釣り方次第。誘い釣りをすれば、先行者の後でも十分に釣れる。
いや、渓流釣りでは先行者の直後を釣って、先行者以上に釣るのが上手といわれる。
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[木に縁りて魚を求む]
「畑に蛤掘ってもない」・「畑に蛤を求めるよう」
手段を間違えては目的は達成できない。
又、見当違いの無理な望みを言う。「魚の木に登るが如し」とも。
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[寒鰤・寒鯔・寒鰈]
それぞれ寒が旬で最も美味なとき(和歌山地方の諺)。
鮒・鯉・鮪・鱸・ウツボも寒に旨い。
一方、「西の河豚・東の鮟鱇」ともいって、両者は冬の味覚の横綱とされている。
寒というのは暦とズレがあり、
春の彼岸までに漁れるものに「寒」がつけられて罷り通るのが魚の世界。
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[川 番 (かわばん)]
釣れない釣り人をからかう言葉。
竿を握ってひねもす川岸に立ちん棒。門番・倉庫番・踏切番などを捩った言葉。
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[川底を知らないで魚は釣れない]
釣りの情報を頼りに鵜の目鷹の目、天手古釣り歩いても釣れるものではない。
釣ろう、上手になりたいと思ったら、その川に精通しポイントをよく掌握すること。
釣りは魚に教えられる。
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[蒲魚(かまとと)]
知っているくせに、知らない振りをすること。また、その人を指す。
主として女性に対して使われる。
蒲鉾の主原料は魚。蒲鉾と知りながら、魚(とと)か?、と訊くところからの俗語。
知らないのに知ったか振りをするのは「魚蒲(ととかま)」。
なお、蒲鉾は、蒲の穂(鉾)を半切にして板に乗せた形から来た名称。
色・形の上から竹輪(焼き竹輪)の方が、そのイメージに近い。
一説には、昔、鰻は裂かずに筒切りにして焼いたので蒲の穂のような焼き上がり。
「蒲穂子焼き」と言ったのが蒲焼きに。これは蒲焼の由来だった。魚蒲になってしまったようだ。
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[郭公が啼けば鱒が溯り始める]
青森地方で「郭公は百五に来る」といい、
郭公が鳴き始めるのは大寒後の百五日目とされている。
この計算でいくと五月四、五日になるが、
こんなに早く啼く事は無く、例年五月二十日前後で、ほぼ全国一律。
その頃、雪白水(雪解け水)に乗って、
桜鱒(本鱒=北国に晩い桜が咲く時期に因んで桜鱒。
学名オンコリンカス・マソウで山女魚と同一。
桜鱒と山女魚の関係は狸を狢というのと同じ)が、
海から産卵のために故郷の川に遡上し始める。
山女魚を筆頭とする渓流釣りは本番を迎える。
山女魚釣りの外道(実は祭り物)に来る桜鱒は豪快そのもの。
ただし禁漁。
鈎に掛かるのは向こうの勝手だが、
釣果に入れると後ろへ手が回る。だが放流する勇気は?。
春に遡上する桜鱒は秋の産卵に備えて盛んに就餌するが、
卵精が熟してから遡上する日本の鮭は、川に入ったが最後、絶対に餌を食わない。
(釣れない=北太平洋の鮭と種を異にする)。
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[大餌に大針、小餌に小針]
弘法筆を選び、釣りは対象魚に合った正しい道具立てでないと思うように釣れない。
同時に針は大は小を兼ねても、小は大を兼ねず、一般には大きい方が効果的。
特に、渓流魚の場合にそれが言える。
渓流魚は魚体に比べて口が大きいから大きい針(八〜十二号)。
魚信があっても釣れないのは・針が小さい、針先が甘い、針先が餌で隠れている、
合わせ方が弱い、合わせ方が早すぎる(岩魚・虹鱒)、遅すぎる(山女魚)
のいずれかによるものだが、針が小さ過ぎる原因が最も多い。
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[大場所に大物、小場所に小物]
「水深ければ魚大なり」。
特に川・渓流釣りに証明される言葉。
魚も人も一緒。
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[大潮あとの中潮を釣れ]
潮回りには大・中・小潮があり、海釣りでは潮が釣果を左右する。
大潮は潮の干満の差が最も大きいときで、その後の中潮に魚はよく食い、好漁となる。
だが、良い潮時でも「上げっ鼻は釣りまくれ、潮止まりは昼寝しろ」と言われるように、
上げ潮(満潮)、下げ潮(干潮)の潮の動く時がよく、
潮の動きが止まると、パタッと食いも止まるもの。
海釣りでは潮の研究が大切。
「潮時」とはよくいったもの。釣堀や湖沼の釣りでも、この潮時が当てはまるという。
人は満ち潮に生まれ、引き潮に死す。
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[沖釣りは船頭次第、川釣りは場所次第]
物事は選択が大事。いかなる名人でも、いない魚は釣れない。
船釣りでは船頭の良否で釣果が左右される。
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[落ち鯊はノリで釣れ]
「向こう合わせ」(釣り手が針を掛けようとして積極的に合わせなくとも、
魚の方が餌を呑み込んで掛かってくれること)の根魚・深海魚釣りは別として、
釣りの上手・下手の一つの基準は「合わせ」にある。
細やかに魚信(アタリ)を聞き、
かつ、その魚信の前の「ノリ」(モタレ)で合わせられれば釣りも一人前。
手(竿)にブルンと伝わる、浮子が沈む、目印が走る、いずれも魚信だが、
これは餌を呑み込もうとする、自分の棲家へ持って行こうとする、
針という異物を感じて餌を吐き出そうとする、のどれかであるから、
この時に合わせると、一般的に遅きに失する。
その前の、言葉では言い尽くせない微妙な感覚。変化、これが「ノリ」である。
なお、魚信という言葉は、辞典に載っていないが、文献では「当たり」としている。
これは「花信」(花の便り)を捩った言葉で、
本来は「魚の便り」(初鰹・秋鯖のような意)であったものが、
釣り用語になり「アタリ」として使われている。
深場に落ちた鯊は食い気も動作も緩慢。「ノリ」を読んで釣らないと釣果は上がらない。
渓流釣りでは「ノリ」以前の、誘い釣りが醍醐味。経験の集積とカン・コツが釣りを左右する。
物には「阿吽」、呼吸と加減が大切。
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[親をにらむと鰈になる]
日本古来の伝承で、親不孝を戒めた言葉。結果的には俗説。
鰈・ヒラメの類は、生まれてしばらくの間は普通の魚のように左右一対の目があるが、
長ずるにつれて「左ヒラメに右鰈」となり、ヒラメは左、鰈は右(魚の左右からいっても、
ヒラメは左側、鰈は右側になる)に目が寄ってしまい、
共に保護色をした側にあって白っぽい側には目がない。
諺源はこれに由来し、目が寄ってしまう、寄り目になる、ということだろう。
鰈の代わりにヒラメが登場することもあるが、
これは「ヒラメ」と「ニラムメ」の語呂合わせに関係がありそうだ。
{狂言ー以呂波・其角}
高知地方では、ヒラメを「オヤニラミ」という。
一方、「親睨み」という、れっきとした川魚がいる。
これについては三宅勇三氏の随筆「川魚親睨み」に詳しい。
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[女連れの釣りに危険なし]
女性と一緒なら無理をせず、空気も和やか、釣りも安全。釣りは趣味・レジャー。
遊びごとに命を張ることもあるまい。
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[女と白魚は子持ちになっては食えない]
子持ち女は艶消し、子持ちの白魚はまずい。<青楼惚多手買>
白魚の旬は春から初夏。産卵も同時期。
魚は一般に子持ちが旨く、
子持ち鯛・鰈・柳葉魚・鮎・鯊・蝦蛄や子持ち昆布などと持て囃される。
子持ち白魚は美味でこそあれ、まずいはずはないが、その魚体は細くしなやか、
半透明に透き通って白く、なんとも美しい。
美魚コンテスト第一位の白魚も、卵を抱えてボテ腹になったのでは食欲も減退する。
と、美女が大きなお腹を抱えた姿とをかけたものだろう。
なお、子持ち鯛は、地方によって海タナゴ(卵胎生魚)を指すこともある。
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[恵比寿様が鯛を釣ったよう]
極めて喜ばしいこと(姿)の例え。
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[恵比須]
七福神の一で会場・漁業・商業などの守護神。
風折鳥帽子をかぶり、いつもニコニコ笑って鯛を釣り上げた姿に描かれる。
恵比須に因んだ言葉は多く、
「恵比須の魚」は、初漁の魚を恵比須に供物とすること。
「恵比須祭」は、不漁のとき、間直し(開運の行事)のために催す酒盛り。
「恵比須舞」は豊漁を祈る神事舞い。
「恵比須銀」は入漁料と、いずれも魚に因縁がある。
「恵比須の紙」は紙幣のこと。「出雲の神より恵比須紙」という。
もう一つ「恵比須秋刀魚」は秋に獲れる秋刀魚のこと。
旧暦十月二十日の恵比須に供えるのでこの名がある。
恵比寿・夷・戎・蛭子とも書き、
夷布とくれば北海道で獲れる真昆布の古(異)称。
JR山手線の駅名は「恵比寿」。
なお、佐渡地方では「海豚はお夷様」として漁師は捕らないという。
全国の漁師がこのとおりなら国際的な海豚騒動は起こらないだろう。
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[江戸前]
東京の芝・品川など江戸(東京)の前の海で獲れる魚貝を、
江戸前産として賞味したのが始まり。
海が近いから新鮮で旨い、とされ、
後に江戸湾(東京湾)一帯で獲れる魚貝の総称となった。
だが、反面、内湾であるために海流が穏やかで、多くの餌があり、
ちょうど養殖池と同様の条件下で成長するので、
魚肉に締りがないという向きもある。
最近は海が荒れ、江戸前では間に合わず、
全国名魚貝類(旅のもの)や「青い目の魚」も幅を利かせているが、
東京はいうに及ばず、鮨屋の暖簾は全国的に、一枚看板の「江戸前」。
善意に解釈すると「握り鮨」ということで、
「大阪鮨」に対抗(区別)する言葉であろう。
一方、海苔は、何処で取れたものでも一緒にされて「浅草海苔」の名がつけられ、
こちらは国際的。
「江戸戻りの土産」といえば、「海苔が来た」で、
「乗りが来た」(乗り気になって来た)にかけるシャレ。
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[餌を貰うは魚を貰うに同じ]
魚は餌で釣る。釣りの途中で餌不足をきたし、
人から貰うのは結果的に魚を貰ったのと同じこと。
そんな乞食まがいのことをしないように餌は十分携行すべし。
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[うろこ雲が出た翌日は雨か風]
鱗雲・鯖雲・鰯雲は魚の鱗の形をした巻積雲の一種で、
高度五千から一万メートル。
漁師は鰯大漁の前兆とするが、低気圧接近の前触れ。
西洋では「女の美しさと鰯雲は長くは続かない」という。
広島地方では「鰯雲夕刻に出るのは晴れ」といい、「鯖雲は雨」。
山口地方は「鯖雲出れば時化となる」。
局地の天候はカメレオンのよう。
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[海の牧草]
鰯のこと。語源は「弱し」で、それが訛って鰯に。
栄養価に富み、あれこれいいながら、人も養われるが、
鯖・鰹などの大型魚の餌となる。
その鰯が食べる餌は、肉眼では見えにくいプランクトン。
自然界には、弱肉強食・食物連鎖の厳しい掟がある。
獲れ過ぎる鰯は、美味なのに、昔から下賎魚扱い。
奈良時代、十八尾三文(貨幣の単位ではあるが、
三文文士・三文判に代表されるように、僅かなお金の意もある) とあり、
当時でも、相当安価で庶民の魚の代表であった。
その鰯が、紫式部 の大好物で、
食べているところを人(夫)に見られて、笑われてしまった。
すると、式部はすかさず、
{日本に はやらせたまふいはしみづ まゐらぬ人はあらじとぞ思ふ} と、
流石は紫式部、鰯を京都・岩清水八幡宮にかけて詠んだという。
以来、鰯の源氏名は「紫」、「御紫(おむら)」(女房詞)。
銚子(千葉県)では、鰯が群れて来ると海が紫色になるので「色が見える」といい、
これから紫になったともいう。もう一方の紫は、醤油の異称。
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[魚の目に涙]
冷酷な人でも、時には情を感じて、慈悲の心を起こすことがある。
「鰐の涙」は空涙のこと。魚類には、フグとその一部の仲間を除いて瞼が無く、
水中生活ゆえに涙の出るはずもない。
「黙すること魚の如く」、声も出さず涙も流さないから、私達は活作りが食べられる。
芭蕉の句に{行春や鳥啼き魚の目は泪}とある。この魚は白魚という。
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[魚の木に登るが如し]
全く勝手が違って手も足も出ないこと。また、到底出来そうにないことの例え。
「鰻の木登り・「猿の水練、魚の木登り」ともいう。
但し、熱帯地方のアナバス(木登り魚)は鰓蓋のトゲを利用して椰子の木に登るし、
日本のトビハゼは吸盤を使って機に登る。変り種もあるのだ。
「鮟鱇の木に登った如し」<雑兵物語>。
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[魚に泳ぎを教えるな]
「釈迦に説法」。すべてを知り尽くしている人に、
生かじりの教えを説く愚かさをいう。
ままあることで、相手をたいした人でないと見縊って大言壮語した後、
その人がその道の大家であったと知って赤面したりする。
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[魚島時(うおじまどき)]
瀬戸内海で、八十八夜の前後、魚が産卵のために海岸に押し寄せる現象、
また、その場所を{魚島}といい、魚の最も多く獲れる時を{魚島時}という。
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[魚心あれば水ごころ]
相手が好意をもっていれば、こちらもまた好意を持つもの。「落下流水の情」。
先方の意向次第で、こちらもそれに応ずる用意があることにいう。
「水心あれば魚ごころ」。本来は「魚、心あれば水、心あり」であった。
「網心あれば魚こころあり」ともいう。
この諺を捩ったのか、菅原e一氏は[魚心あれば人ごころ]・檜山義夫氏は、
[魚心釣り心]を著している、
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[一本竿にあぶれなし]
「一本鈎に無駄なし」。釣りにもいろいろあり、
複数の竿や鈎を駆使して釣果を上げる名人級もいるが、
普通は一本竿に一本鈎(胴突き釣りは例外か)の方が無難。
ロスやオマツリ(釣り糸がからまること)が少ない。
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[一匹逃げれば皆逃げる]
「一匹狂えば千匹狂う」で、一匹の魚が驚いて逃げると他も同調し、釣にならない。
釣りは静かに行動し、第一投を慎重に、掛けたら必ず取り込む事が大切。
獣(四つ足)は頭(あたま)、鳥は羽(はね)で数えるから、それぞれ頭(とう)・羽(わ)だが、
魚は尾(お)だから、一匹でなく、一尾が正しい表現であろうが、
語呂・発音の関係で一匹としたものであろう。
ウサギは耳をはねに見立てて一羽・二羽と数える。
これは坊主が戒律にそむき四足を食べた言い逃れの口実であった?。
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[糸のもつれを解く人はよく釣れる]
釣りには運もあるが、所詮は鈍と根がものをいう。
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[岩魚釣りに名人なし]
氷河期の後退期に、ボヤボヤしていて川に置き去りを食った岩魚は、
その名残で川の最上流に棲んでいる。
水は冷たく、水量も少ないから満足に水棲昆虫が育たず、岩魚は常に飢えとの闘い。
餌を見つけると執拗に追い廻し、痛い目にあっても、釣り落としても直ぐハリにかかり、
馬鹿な魚よと陰口を叩かれる。
巷間で取り沙汰される程の難しい釣技は不要。
本州においては、その数が激減し、釣り場まで遠いために珍重されるのであろう。
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[岩魚の待ち場]
岩魚に限らず、魚は餌が流れて来る場所を心得ていて、そこを縄張りにしている。
要するに、魚の寄り付く場所(点)は決まっているから、
そういう穴場を見極める目を養成しないと、何年経っても釣りは上達しない。
「釣れた穴には代りの魚が来る」・「清濁の合流点に魚が集まる」の言葉は事実である。
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[烏賊(イカ)の甲より年の劫]
イカの甲は役に立たないが、年長者の体験は貴重。
老人の言葉を軽んじてはいけない。
スルメイカは一年の短命。
「蟹の甲より年の功」、「亀の甲より年の功」ともいう。
劫とは非常に長い時間。囲碁で同じ箇所で取ったり取られたりする手のコウも劫。
劫立の規則がなければ、永久に同一手が続く。
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[磯のカサゴは口ばかり]
沿岸魚のカサゴは、頭と口が大きいことから、口先だけが達者で、実行力の乏しいことに例える。
カサゴは磯釣り・船釣りの好対象魚。煮魚として冬に美味。海タナゴと共に卵胎生魚。
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[一度はかかるカワハギ病]
カワハギは餌盗りの名人(魚)。
しかも口が小さく合わせ方にコツが要る。
その面白さと難しさのとりこになって熱中し、カワハギに遊ばれてしまう。
カワハギ釣りに限らず、釣りは熱病のようなもので、大同小異。
カワハギはきれいに皮が剥げるのでその名があり、見事な剥げっ振りに、略してハゲとも言い、
身ぐるみ剥がされるのでバクチウチ(オ)。
「ハンサム」 は頭の半分禿げた人のことを言い、半分じゃ寒かろう、のシャレ。
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[蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨]
有難い、ということを茶化して言う言葉。
[蟻が十なら芋虫ゃ二十] と同義語。
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[鮟鱇の吊るし切り]
あんこう独特の料理法。
ブヨブヨした魚体は、まな板の上では不安定。
そこで、唇に鉤を通して吊るし、口から十リットル前後の水を呑ませて重石とし、
七つ道具(肝、骨、ヌノ・・卵のこと、肉、トモ・・尾びれのこと、皮、鰓、胃袋)に分解料理する。
あんこう料理は水戸(茨城県)が本場。
[吊るされた上に切らるる鮟鱇かな] ・ [鮟鱇に唇ばかり残るなり]
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[烏賊(イカ)の睾丸(キンタマ)]
相手の思い通りにはいかない、ということを、あり得ない例に引っかけた駄洒落。
「そうはうまくいくものか」と言うところを {そうはイカのキンタマ}・・・。
(釣りバカ日誌では {そうはイカのチンチン}・・・とも)。
しかし、イカに精巣がなければ繁殖するはずがない。
睾丸に近いものはあるのだろう。
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[アタマ、カマ、スナズリ、セニク]
魚の旨いところの順位。[アタマ] は頭、[カマ] は胸鰭の付け根から鰓にかけての部分で、
形が草刈鎌に似ていることに由来。
ここの中に鯛の鯛、鯵の鯵、鱈の鱈などが入っている。
[スナズリ] は腹(底)、鮪でいえばトロ(腹州)に当たる。
内臓を保護するため脂肪に富んでいる。
泳ぐとき、海(川)底の砂を擦るのでスナズリ。[セニク] は背肉。
一方、料理としては、[一生、二焼き、三揚げ、四干し、五煮]となろうが、
魚種によって順位が入れ替わる。
一説に[一焼き、二膾、棄てるより煮て食え]とある。
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[内の鯛より隣の鰯]
自分が持っている物の方が遥かに上等なのに、 ”隣の花は赤い” で、
他人の物がよく見えることにいう。
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[海のことは漁師に問え]
舟釣りでは船頭の指導が絶対で、
釣り人はいかに名人を自負しても、漁師からみれば所詮は素人。
物事はその道の専門家に相談し、その言うことを聴くのが最善の策。
” 舟は船頭 ”・” 餅は餅屋 ”。
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[うお(魚)も喰われて成仏す]
殺生戒を破る言い訳。魚に言わせれば、人間、特に坊さんに食べられて、
そのつど 「南無阿弥陀仏」 とやられた方が成仏できて本望。
転じて、都合のよい口実。
一方、これとは別に、釣りにおいては、釣った魚はおいしく食べてやる。
食べない魚なら、釣りのプロセスを楽しんだ後で、放流してやるとよい。
”釣りして殺さず”。 釣りのマスコミでは、これを 「再放流」 という。
放流された魚を釣って、また放流するからであろうか。
すると天然の魚がいないことになる。 単に 「放流」 でいいように思う。
ルアー、フライ・フィッシングでは 「リリース」。
カッコイイ。 ルアーが若者に享ける道理は、横文字(カタカナ)のせい。
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[一場所.二餌.三に腕 ]
いかに立派な技術と竿を持っていても、いない魚は釣れない。
魚のいる場所=穴場を探す、そこまで行く。
そして、餌を吟味すれば未熟でも多少は釣れる。
その上、腕が立ったら鬼に金棒。
「一腕.二竿.三仕掛け.四餌.五に日並み」という人もいる。
黒田五柳の「釣客伝」(文政年間刊)では、
「一に天候.二に場所.三に勘.四に手回し.五に根」と説いている。
釣りも「犬も歩けば棒に当たる」で、
何度も足しげく通っていれば、いつか良い釣りに恵まれる。
川なら一本の川に精通し、そこを道場とすべし。
釣り情報に合わせて踊っているうちは[太公望の半助]とか。
{釣れた噂を釣りに行くな}とも。
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[大場所に大物・小場所に小物]
{水深ければ魚大なり}。
特に川・渓流釣りに証明される言葉。
魚も人も一緒。
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[永遠に幸せになりたかったら釣りを覚えよ]
晴釣雨稿(読とも)。
鮒に始まって鮒に終わる釣り人生。年齢・環境に合わせて{釣り百態}。
天地一竿・一竿の風月・釣り三昧、これ最高の幸せなり。
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